純愛、愛される側の心模様とは?

おもしろ聖書エッセイ!For Women

バイブル中の美しい女性達のドラマがコミカルなエッセイに!

純愛、愛される側の心模様とは?

ラケル・心イメージ

もしも、あなたと結婚したいためにひとりの男性が、七年間いや十四年間でも無償でひたすら奴隷のように、働く事を厭わないひたむきな愛を貫こうとするなら、どう思いますか?

自分としても、多少は好意を持てて尊敬できる相手なら、魅かれて行くでしょうか。多分、そうですね。案外、「情にほだされる」傾向があるのは、女性のほうかもしれないですね。持ち前の本能の母性愛が疼くようですから。

しかし動機はそれでもいいかもしれません。男性からの一途な純愛のアプローチを受けた時、愛される側の女性の方も、純愛という美しい虹色の道を歩み始めるなら、やがて幸福の渦の中で陶酔し、世界はやはりバラ色になることでしょう。

ころが、どちらか片方が一足早く「純愛」の素晴らしい陶酔感から脱け出してしまい、灰色の現実を取り戻した時!どうなるのでしょうか?大いにあり得ることですね。

大昔、聖書中(創世記)には、一途な純愛を貫き通した男性が登場します。年齢は結構なものでした。名前はヤコブ(イスラエルと呼ばれるようになる)といいますが、彼が『この女性のためなら』と思わせたのは、ラバンという親戚の人の娘のうち、美しい末娘ラケルでした。

二人は純愛と呼べる恋に落ちます。ヤコブはラケルと結婚したいがゆえに、父親のラバンに「七年間、あなたに仕えます」と申し出て、奴隷のように働く契約をします。(既に前後の見境がつかなくなっているのか否かはわかりません)

七年間、およそ2550日間、おそらくは、ラケルの姿や見たり、彼女の声を聞く度に胸をときめかせながら、結婚できる日を思い描きつつ雨の日も風の日も、羊飼いの仕事などを続けるのです。純愛中の彼にはこの年月をどう感じていたのでしょうね。こう記録されています。

「こうして、ヤコブは七年の間、ラケルのために働いたが、彼女を愛したので、ただの数日のように思われた」(創世記29章)。

恐るべし、恋の力。七年が数日?2550日以上が、2~3日となるのか?まさに、これこそが純愛のなせる業とも言うべき極みです。1000分の一の速さで、地球が回転してしまうのですからね。正確に時を刻む宇宙の法則も、無関係なのです。太陽と月が、通常感じる速さの千倍速で、めまぐるしく昇るのです。

槍が降ろうと津波が来ようと、どんな困難にも微動だにしない。内心には、少しも響かない陶酔状態なのですね。

ところがです。なんと残酷なことでしょう!遂にその日が来て、結婚の宴の後、父親ラバンはラケルではなく姉のレアの方を騙して与えます。(姉から嫁がせるのが順序だろうと言う訳です)酒に酔っていたヤコブにも、不覚があったのですが可哀想ですね。

翌日、契約違反に気づいて異議を申し出たヤコブに対し、ラバンは「ラケルをすぐに与えるから、もう七年間、私の下で働け」と言うのです。ヤコブは、それなら、もういいや、とあきらめるでしょうか?いいえ!ヤコブとしては愛するラケルを貰いたい一心ですから、今度はラケルを妻にしてから、さらに七年間無償で働き出します。

働きながらも、男の純愛を示すヤコブの心模様は、結婚後もラケルへの愛一色でした。では、愛される側のラケルの心は、どうかと言えば・・・そうそう、いつまでも純愛の陶酔の中で、幸福感を味わう訳にはいかない事情が、生じてくるのです。夫ヤコブの愛を受けるだけでは足りず、子孫を産み出す、という務めが苦悩を与えます。天は二物を与えず!でした。

彼女は、当時の社会的な慣習から、一夫多妻制度に不満があるわけではありませんでした。(容易に受け入れられるのが不思議ですが)むしろ、多産な姉レアが、ヤコブの子供を次々に出産するのに対して、ラケルはいつまで経っても子供に恵まれませんでした。それが故に、姉に対しての嫉みに駆られていきます。

ま、その気持が分からない訳でもありませんがね。ラケルは夫の愛を独り占めしたとはいえ、当時、子供を授かるのは女としての”価値”を左右するほどの重要な祝福の一つでしたから、姉レアとの間に『出産合戦』を繰り広げることになります。子供を得るための血の繋がった姉と妹の心の駆け引きは、凄まじいものです。(女心の怖さを知らされますよ)

残念ながら、ラケルは当時の社会通念の囚われの身となってしまい、純愛のバラ色に彩られた結婚生活を、徐々に色褪せたものにしてしまうんですね。純愛の難しさはここにあるのかもしれません。双方ともに、周囲の何も見えなくなるほど、盲目的に愛し抜く陶酔感を保ち続けるには、どちらも『よそ見は禁物』だということでしょうか。心が他の関心事で埋まってしまうと、一途な純愛は片方の側から、冷えてきて薄れてしまうようです。

ヤコブのほうは変わらなかったのですが、愛される側のラケルの心模様は、最早、バラ色ではありませんでした。「姉に負けずに、子を産みたい」一色に変えられていきます。

こうしたドラマテックな物語を読むと、やはり、一途な純愛を長期的に保つには『ひたむきで純粋な愛一色!』を貫かなければ成り立たず、また永続はしないものなのだと、気づかされますね。

そして、どちらかと言えば・・・ラケルのように愛される側にいるより、ヤコブのように愛して止まない純愛に陶酔する方が、幸福でいられるようです。

何年もの後、結局は、ラケルは二人の男児に恵まれます。どんなにか、嬉しかったことでしょうね。しかし、二人目の出産が、余りに難産だったため死んでしまい、比較的短い生涯を閉じています。捉え方によりますが、熱烈に愛される側の心の模様がどうあるべきか?を後代の女性達に教訓として残しながら亡くなったのですね。純愛、愛される側の心模様をちょっと考えてみました。純愛!あなたはその純粋さで愛する側ですか?それとも、愛される側ですか?

(written by 徳川悠未)